合理化・効率化という無限ループ……どこまで追い求めるのか?

思考・気づき

効率をどの程度まで求めるかは人それぞれですが、自分の中で
『これ以上は求めない』というラインを決めておいた方がいいと私は思っています。

なぜなら、際限なく効率を求め続けると、ある程度のラインより先は、
効率がいいはずなのにどんどん苦しくなってしまうからです。

どういうことか説明します。

効率的に時間を使って、空いた時間で何をする?

「効率を求めた結果、空いた時間を生み出して何をするのか?」と考えてみると、

きっと、効率を求め「すぎる」人は、空いた時間で「ゆっくりする」という選択肢は、
「効率の良いことではない」と判断するのだろうと思うのです。

その結果、その人は空いた時間でまた、何か効率的に仕事をしようとするでしょう。

効率を求めれば無限に求められるけれど、求めれば求めるほど、
折り紙を小さく折りたたんでいくように、
1回折って減らせる面積が段々小さくなるように、

「効率を良くする効率」は悪くなっていく。そう思いませんか?

「暮らす」って、“何か”で時間を埋めること

自分の持っている時間は、みんな決まっています。

そう思うと、「暮らす」ということは、
それぞれがそれぞれの持っている時間を“何か”で埋めて過ごすこと

考えてみれば、“人間臭さ”って非常に効率が悪い行為ですよね。
情に流されて何かやるなど、効率的とは真逆の行為だなーとよく思うのです。

「時間をかけて何かをする」というのは、言い換えれば「効率が悪い」になってしまう。

でも、だからと言って、美味しいものをゆっくり味わうことや、風景を楽しむことや、
そういう部分まで効率を求めて排除してしまうのは、私は嫌です。

情に流されて手助けするとか、非効率であっても、捨てたものではないと思います。

子どもって「効率悪い」の象徴だと思う

あと効率という話で言えば、子どもほど効率の悪いものはないよなって、
子育てをしていて思います。

やることなすこと、まぁ非効率で、非生産的で。

どっちの変顔がおもしろいか勝負してたとか、
どっちが先にドライヤーするかで数十分ケンカするとか、

一日中、そんな感じ(笑)。でも、それが子どもの仕事。

効率を求めすぎると子供を連れて歩くことにイライラしてしまうし、
子供のやることを遮って答えを教えたくなってしまう。

だから、そんな場面でも非効率な方を自分から選ぶような割り切りが必要だと思うのです。

効率ってらせん階段みたい

どこまで効率を求めるか?基準は人それぞれ違うだろうけど、
らせん階段を上るどこかの高さで、その“らせん”は自分で止めなければいけません。

いつかは自分から止めないと、その基準から先は、きっと自分が苦しいから。

では、どこで高さで止めた生活が心地いいのか?

それは“自分がどう在りたいか=ミッション”次第だと思います。
ちなみに私は、“だいぶ低め”が心地いい人です(これ、どれが正解は無いですから)。

☆本当の自分に会えるミッションメイキング

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