娘達は読書感想文が苦手だと言います。
私はというと、読書感想文は子どもの頃から超が付くほど好きだったし得意でした。
だって、何を書いてもいいんですもん。正解も間違いもありません。
「苦手って、なんで?何を書いてもいいんだよ?」
と娘達には伝えるのですが、この“何でもいい”のが難しいのだ、と言います。
人間、選択肢が多すぎると選ぶのが難しくなるとか聞いたことがありますが、
何でもいい=自由って、ある意味、不自由なのかもしれませんね。
ある程度は「答え」がある方が、
自分の頭を使って色々と考えなくてもいいから楽なのかもしれません。
他にもあるある、「自由すぎて不自由」現象
同じような話は他にもあって。
うちの末っ子くんは、3月に卒園です。
お姉ちゃんの頃は「園服」があったので卒園式の服装は困らなかったけれど、
ここ数年で幼稚園がこども園に移行し園服がなくなった結果、
「卒園式に何を着せていく?問題」が新たに発生しました。
就活スーツなんかも話題になっていますよね。みんな同じ黒スーツでいいの?と。
でも就活生からは自由になったら何を着ていいか困る、との意見も聞こえます。
このように「自由すぎて不自由な現象」は、いろんな場面で起きています。
自由なのに不自由なのは、なんで??
卒園式などはセレモニーなので、ふさわしい服装でというのはある程度
「こうするべき」があっても仕方がないことかと思いますが、
「自由すぎて不自由な現象」のウラには、
自由と言いつつ暗黙の「べき像」があるから、それに気を遣わなければならず不自由。
という理由が1つ、あるのかもしれません。
つまり自由と言いながらの、
“本来ならこうすべき”を考えて空気読めよ、みたいなプレッシャーのことです。
なんだかんだで自由じゃないんですよね。
自由だからと言ってぶっ飛んだことをすれば、やはり、
わ―何あの人っていう視線が痛いものです。
「べき像」という「型」
そんな「べき像」って、言ってみれば「型」みたいなもんじゃないですか。
読書感想文の書き方っていう本があったとして。
それって迷わずに済むけど「型」ですよね。
その書き方に従って書けば、誰が書いてもだいたい似たような感想文ができるでしょう。
正解がない代わりに、従っていれば“間違わない(大きく外れない)”。
それはつまり“無難”で。
“無難”の集まりが“多数派”になって。“多数派”だから“正解”になる。
今の社会って何か、私はそんなイメージです。
型に合わせて自分の形の方を変えるっていうのは、不自由だし窮屈です。
でも型があるのは楽なんです。迷わないで済むし、多数派になれるから。
型の無い世界を生きる
これから先の時代、「こうあるべき」っていう型はどんどん無くなっていく。
私はそうなると思っています。
もし、
『皆さんもう、これからは自由ですから、空気読まなくていいですから、
好きにしていいですよ~』っていうアナウンスが流れたら。
皆さんは『それだったら私はこうしたい。』っていう、「自分の意思」がありますか?
もし、『意思なんてない、自分がどうしたいのか分からない……。』となったら、
どうしますか?Google先生に聞きますか?
「自由 生き方 分からない」と。
このようにしてGoogle先生に答えを求めてしまうのは、
答えになりうる「型」を探すという考え方から抜け切れていないってことですよね。
読書感想文の書き方が分からないから、
Google先生教えて!って検索することと同じだと思うんです。
自由って楽なようで、不自由より難しいなぁ。と思いました。