白黒つけた情報が重宝されるネット社会の弊害

私の人生観
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少し前の「ネットの子育てルールがしんどい」の投稿では、シェアしたFacebookの方にですが色々とコメントを頂けて、思っていたのは私だけじゃなかったー!と思ったり、やはりお母さん達は関心あるテーマなんだなぁと感じたり……。

たくさんコメントをありがとうございました。

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ネットには適当なことを書けない

その記事の中で「ネットには適当なことを書けない」というようなことを書いたのですが、これは私自身が、情報サイトと言えばいいのでしょうか、少しですが記事を書くお仕事をするようになって思ったことです。

お仕事としてだから当たり前だけど、1つ1つの内容にすごく気を遣うなぁって、書く側の立場になってみて感じました。

このブログは私のブログだから、思ったことを気ままに書いていますが(笑)

それで、ネット記事については「適当なことを書けない」という空気ともう1つ、書く側になって感じた空気があって。

今回は、そのことについて書きます。

「白黒つけない情報は情報じゃない」という空気

もう1つの空気、それは「白黒つけない情報は情報じゃない」という空気です。

これは「適当なことを書けない」に近いものではありますが、「〇〇と△△、結論はどっちもいいです。」とは、言いづらいという空気です。

でも、実際の生活では、どっちでもいいじゃんと思うことは結構ありますよね。

あとは、人によっては○○が正解だけど、環境が違えば△△が正解になる場合もあります。

だから、どっちでもいいんだよと言いたいんだけど、それがネットだと「最後まで読んだのに結局どっちがいいのか分からなかった」となってしまいます。

答えを探している人から見ると、情報として価値がないのです。

ネットで調べる人は納得のいく答えを探している

そもそも、ネットで調べようかという動機がある時点で、みんな何かしらの「答え」を探しているのかなって。

気ままなネットサーフィンじゃなくて、困りごとがあって、どうにかしたくてネットを見るときのことですよ。

そんな安心の材料を探しているときに、「どっちでもいい」は欲しい答えになっていないんですよね。

だから、書く側も何かしらの「読む価値」を提供しようと思うと「どっちでもいい」とは言いにくいもんだなーと思うのです。

同じテーマでも、欲しい方の答えが見つかってしまう

ネット上では、同じテーマでも「〇〇が正解です」と「△△が正解です」どっちの結論になる記事も、探せばたどり着けてしまいます。

さっき全否定されていたことが、別の記事では全肯定されていることも多々あります。

つい、無意識に自分の中にすでにある「結論」と同じ立場の側の記事に辿り着くことで安心しようとしてしまいますが、そういうどっちの答えも見つかるテーマは、結論「どっちでもいいんだ」とも考えられます。

現代はインターネットがあるおかげで、困りごとはすぐに解決できて便利だけど、「結論を待てなくなった」弊害もあると思います。

“すぐに白黒はっきり付けなくても、時間が解決してくれるよ”ってのんびり構える気持ちも必要ですね。

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